黒田官兵衛の朝鮮出兵

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黒田官兵衛の朝鮮出兵

文禄の役

秀吉の夢である中国平定の為、李氏朝鮮への出兵。日本軍の総大将は宇喜多秀家でした。その軍事顧問役として黒田官兵衛が従うことになり朝鮮に渡りました。
日本軍は快進撃を続け、李氏朝鮮の首都漢城を落とすところまで行きました。
ただここで補給の為、一度守りを固め、順に北上して行こう。明の大軍が攻めてきたら勝ち目はない。と唱えたところ、諸将に反対されていました。
日本軍の実権は宇喜多秀家や石田三成に握られており、軍事顧問役であった黒田官兵衛には抑えるすべもありませんでした。
自らの軍略を活かせて貰えないと理解した黒田官兵衛、病気を理由に秀吉に願い出て帰国、静養することになりました。
黒田官兵衛が予想した通り、明が李氏朝鮮を救いに大軍をもって日本軍を攻撃してきました。
激戦のさなか、秀吉の命で再び朝鮮に渡ることになりました。「せめて南朝鮮くらいは従えて来い」と。
ただもうその当時の日本軍は諸将の思惑だけで動き、統率の全く取れていない状況。秀吉の命を伝えるだけでもかなりの日数がかかってしまいました。
ここでも失意した黒田官兵衛、同行していた浅野長政と囲碁を始めました。
そこに石田三成、増田長盛、大谷吉継が軍議の為、会いに来ましたがいつまでも待たせておいて囲碁を打ち続けていました。
黒田官兵衛も浅野長政も石田三成が若い文官のくせに軍のことに色々言ってくることに苦々しく思い、もし口論でもなったら差し違える覚悟もあったと言う。
この行動の後、黒田官兵衛は帰国するが、許可なく戻ったことに秀吉は激怒。官兵衛は出家し謹慎。最終的には許される事にはなりましたが。この出家時に「如水」の号を授かり、仏門に入ることになりました。
このように諸将が対立している中、上手くいくはずもなく、黒田官兵衛の軍略、知略を活かすことのないまま、朝鮮・明との停戦協定が結ばれ文禄の役は終わることとなった。

 

慶長の役

秀吉は再び大軍をもって李氏朝鮮を攻めることを決意、小早川秀秋を総大将とし、その軍事顧問役として再び黒田官兵衛が選ばれることになりました。
李氏朝鮮の南部を制圧した日本軍は本格的に自領とするため、いくつか城を築きました。
そのうちの一つ、蔚山城を明軍が攻めてきた時、城主加藤清正に息子を援軍として送り、わずかな手勢で梁山城を黒田官兵衛が守り、攻め込んできた明軍を返り討ちにします。
軍略が成功し、ある一定の成果をあげることはできましたが、最終的に秀吉の死をきっかけに日本軍は撤退、慶長の役も終わることになりました。