黒田官兵衛は石田三成をどう思っていた?

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両雄並び立たずを体現した黒田官兵衛と石田三成

豊臣秀吉の天下統一を支えた名軍師が黒田官兵衛なら、豊臣政権の実務を取り仕切ったのが石田三成でした。竹中半兵衛が早世したあと、黒田官兵衛に匹敵する参謀は登場しませんでした。
石田三成も官僚としての実務能力では右に出るものがなかったとされています。軍事面、内政面と得意な分野は違いますが、豊臣政権の両雄といっても過言ではないでしょう。

 

軍事と内政でそれぞれが豊臣政権の牽引役に

2人の出会いは秀吉がまだ織田信長の配下だった1578(天正6)年ごろとみられます。秀吉が毛利攻めのため、播磨を拠点にしようとした際、織田と毛利のどちらに味方するかで播磨の武士団が揺れました。このとき、「織田につくべし」と主張したのが黒田官兵衛で、既に秀吉に仕えていた石田三成で出会ったとみられます。

 

その後、黒田官兵衛は竹中半兵衛と並ぶ軍師として頭角を現し、半兵衛の死後は秀吉の天下統一を支えていきます。一方、石田三成も内政の才覚を示し、秀吉の側近として重用されるようになりました。

 

信長の死後、秀吉がその後を継いで天下統一に邁進していた時代は、2人の担当することが異なり、それほど大きな問題は歴史資料に見えません。しかし、秀吉が天下統一を達成すると、軍事的才能に優れた黒田官兵衛は警戒されて遠ざけられたのに対し、石田三成はライバルを蹴落として側近ナンバーワンに上り詰めました。

 

朝鮮で深刻な対立が表面化、やがて確執に

2人の間のトラブルが表面化するのは、朝鮮に攻め込んだ際です。文禄の役で黒田官兵衛は参謀役の軍監として海を渡りました。これに対し、石田三成は秀吉の代理人として戦ぶりを監視する役割を持っていました。

 

日本軍は初戦の快進撃にもかかわらず、明国軍の反撃や朝鮮民衆の抵抗で苦戦に陥りました。撤兵を主張する黒田官兵衛とあくまで継戦を主張する三成、双方の意見は平行線をたどります。帰国して秀吉に撤兵を伝えた黒田官兵衛は命令違反の罪に問われました。

 

続く慶長の役でも2人の対立は変わりませんでした。蔚山城の戦いでは日本軍の敗色濃厚でしたが、各地の部隊が一斉に駆けつけ、明国軍を退却させるのに成功します。しかし、石田三成は退却する明国軍を追撃しなかったことを厳しく批判、命令違反で処分される大名が相次ぎました。

 

派閥面でも2人は対立するポジションに

黒田官兵衛は秀吉の弟豊臣秀長や相談役の千利休、最古参の側近蜂須賀小六らと親しい関係でした。しかし、小六や秀長が死亡し、利休が秀吉と対立し、切腹する中、次第に豊臣政権の中枢から遠ざけられています。その代わりに豊臣政権の中枢に座ったのが、石田三成でした。

 

豊臣政権下の派閥でも、2人は対立する立場にあったことは間違いないようです。ただ、秀吉は国内の統一が進行している間、黒田官兵衛を重用しましたが、それが終わると警戒感を見せ始めたのです。ドラマや小説では、石田三成の陰謀として描かれますが、実態はどうだったのでしょうか。ライバル視していたことは十分に考えられます。

 

関ケ原の合戦前、石田三成は黒田官兵衛に西軍に加わるよう要請しますが、実現しませんでした。朝鮮での確執が影響したとみられています。もし、黒田官兵衛が西軍の指揮を執っていたなら、歴史は変わったかもしれません。