竹中半兵衛とのエピソード

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黒田官兵衛と竹中半兵衛のエピソード

両兵衛

双璧、秀吉の両兵衛と並び称される二人ではあるが、二人が共に秀吉に仕えていた期間は短い。
官兵衛が秀吉に仕え始めたのが1575年(天正3年)7月。半兵衛が病で没したのが1579年(天正7年)6月。
また半兵衛の死の前年、1578年10月の段階で、官兵衛は織田信長に謀反を起こした荒木村重を翻意させようと有岡城に乗り込み、そのまま幽閉されている。
二人が共に「秀吉の両兵衛」として顔を合わせられる期間はわずか3年しかなかったのだ。
加えて半兵衛の体調や、当時秀吉自身が身体が幾つあっても足りない程忙しく、当然彼からすれば頼れる配下であった二人の軍師も同様に大忙しであっただろう事を考えれば、会って多くを話す機会など数える程しかなかったのかもしれない。

 

二人の逸話「秀吉の書状」

だが、同僚として過ごした時間はわずかであっても、二人の間柄は親密であったとされる。
ある時官兵衛が半兵衛に、秀吉に対する不満をもらす。かつて秀吉が、官兵衛に知行の加増を約束し、それを証明する書状まで書いて官兵衛に渡したが、それをいつまでも果たしてくれない、という。即座に半兵衛は官兵衛の手からその書状を取り、破って燃やしてしまった。驚く官兵衛に対し、「こんなものがあるから不満を感じるのだ。書状も、貴方の不満も、あっては決して貴方の為にならない」と諭したという。官兵衛もその言葉に納得したとも伝えられる。

 

二人の逸話「松寿丸」

織田信長に謀反を起こした荒木村重。彼を翻意させようと有岡城に乗り込んだ官兵衛だが、幽閉されてしまう。一節にはキリシタンであった村重が、同様に官兵衛もキリシタンであった為害する事ができなかったともされるが、何にせよ官兵衛は生きたまま囚われの身となった。
当時の風習として、官兵衛は自身の嫡男である松寿丸(後の黒田長政)を人質として秀吉に預けていた。
元々疑り深い部分があるとされた織田信長は、官兵衛が村重側に寝返ったと激怒した。
信長は秀吉に松寿丸を殺害を命じる。
官兵衛の主家にあたる小寺家が村重側についていた状況を考えれば、また人質が元々なんであるかを考えれば、信長の判断も責められたものではないだろうが。
命じられた秀吉は、だがまさか松寿丸の殺害を実行できる筈はなかった。彼自身、官兵衛が寝返りなどする訳が無いと信じていたのだ。だが、無論信長の命令に反する訳にもいかない。そんな事をすれば、状況が状況だけに今度は自分が寝返ったのだと信長が判断するかもしれない。
そこで、秀吉は半兵衛に松寿丸を秘密裏に匿うよう指示する(一説には秀吉から松寿丸殺害を命じられた半兵衛が独断で匿ったともされる)。
半兵衛は松寿丸を自身の領地、家臣の屋敷に匿った。彼にとってはこれが最後の大きな仕事となった。
後に有岡城が落城し、助けられた官兵衛はこの事を感謝し、竹中家の家紋を貰い受けた、とも伝えられる。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて、黒田長政が東軍につき、西軍の諸将の多くを寝返らせ、徳川家康の勝利に貢献した事を思えば、松寿丸を生ながらえさせたこの出来事は歴史においても大きな意味を持つと言えよう。