後藤基次について

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後藤基次は何故追放されたのか?

後藤基次の幼少期

黒田家の精鋭部隊、黒田二十四騎としても知られている後藤基次(通称、後藤又兵衛)は波乱万丈な人生を送りました。元々、黒田家の普代の家臣ではなく、父.後藤基国は最初別所家に仕えていました。別所家が織田信長と対立すると、父は降伏し、その後小寺家に仕えました。この小寺家で黒田官兵衛と出会います。父が病死すると友人であった黒田官兵衛に引き取られました。その後、しばらくは黒田家で黒田の嫡男松寿丸(後の黒田長政)と兄弟のように過ごしました。

 

第一の不運

1578年(天正6年)黒田官兵衛が荒木村重によって、有岡城に幽閉された時です。この時、基次は黒田家を追放されるのです。理由は諸説ありますが、黒田の家臣一同の誓紙の署名を拒否したためとも、一族が荒木村重に加担したためとも言われています。責任を取る形で追放され、その後は諸国を巡り、仙石家に仕えていました。時期は不明ですが、基次は黒田家に復帰します。基次の復帰に尽力したのは、黒田官兵衛の嫡男長政でした。「自分の右腕」とまで基次を高く評価していたからでした。その後の基次もこの恩に報いるように、朝鮮出兵や関ヶ原の合戦にて大きな働きをします。

 

第二の不運

黒田官兵衛の死後、基次は黒田家を出奔します。幼少期はあれほど仲の良かった長政と不仲になり、出て行ったのです。この理由にも諸説あります。朝鮮出兵の際に相手の大将と一騎打ちになったとき、基次は助けることもなくただ、見ていました。他の武将にその理由を訪ねられた時、「この程度で倒されるような殿ではない」と答えたと言われています。長政は一騎打ちには勝ったがこの事をひどく恨んだと言われています。また、基次は官兵衛から信頼を得ていました。その事を幼少期より羨んでいた長政の気持ちが爆発したためとも言われています。黒田家を出た基次は、長政の妨害にあい、他家に仕官することができず、浪人として過ごしていました。「槍の又兵衛」と呼ばれる程の槍術に長けていた基次を欲しい大名はいくらにもいたのですが。それほどまでに、長政の怒りは凄かったと言えます。

 

後藤基次の最期

浪人として過ごしていた基次に大阪の豊臣と江戸の徳川が戦になるという知らせが入ります。武士としての活躍の場を求めていた基次にはまたとない機会です。この時、敵の徳川からも破格の待遇で引き入れようとしました。しかし、豊臣家への恩義をたて、そのまま豊臣として戦う事を決めました。大坂夏の陣では、10倍以上の敵を相手に討死しました。もし、あのとき徳川についてきたらまた違った結末になったのですが。己の意地で後藤基次は散っていったのです