黒田八虎の一人、黒田利則とはどんな人物なのか

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黒田八虎の一人、黒田利則とはどんな人物なのか

黒田利則..、あまり聞きなれない人ですが戦国武将の一人です。ではどんな人でしょうか。

 

黒田利則は永禄4年(1561年)、播磨国姫路(現在の兵庫県姫路)にて黒田職隆の三男として生まれました。異母兄に有名な黒田孝隆(通称、黒田官兵衛)がいます。幼名は甚吉と言います。その後修理亮(これは官位です)、剃髪後は養心と名前を改めています。利則の父、黒田職隆は早くに最初の妻を亡くしています。その後、諸説ありますが主君である小寺政職の勧めにより後妻をもらいました。これが利則の母親です。

 

天正5年(1577年)異母兄黒田利孝と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えます。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにも参加しています。この戦いで功績を挙げた利則はこの後、羽柴秀長(秀吉の弟)に仕えます。天正15年(1587年)の九州平定にも秀長軍として参加しています。そして、この頃キリシタンの洗礼を受けたと言われています。利則の兄弟は皆、キリシタンの洗礼を受けています。異母兄黒田官兵衛がキリシタンであったため、その影響を受けたのでしょう。異母兄黒田官兵衛が豊前国を豊臣秀吉より拝領すると黒田家の家臣となり、2000石を貰っています。

 

文禄元年(1592年)の文禄の役(朝鮮出兵)では甥の黒田長政に従い、侍大将として従軍し、慶長の役でも旗本備として参加しています。この朝鮮出兵でも功績を残しています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは異母兄黒田官兵衛に従い、豊前国中津城の守備を任されます。この時も九州関ヶ原の戦いと言われる戦いで功績を残しています。各戦いで功績を残した黒田利則ですが、異母兄の黒田官兵衛は知将として、甥の黒田長政は勇将な武将として知られています。これは黒田家の血筋なのでしょう。

 

関ヶ原の戦いにより、甥の黒田長政が福岡藩主になると、1万2000石に加増され、津屋崎城代を任されます。黒田長政が筑前入国時には、長政の名代として名島城を受け取りに行っています。

 

那珂郡市一瀬(現在の那珂川町)に屋敷があり、新領地の領民の動静をよく把握していたと言われています。

 

その後の利則は父、黒田職隆の菩提を弔うため、那珂郡一瀬村に心光山正岸寺を建立して肖像画を奉納しています。その後、異母兄黒田官兵衛が没すると崇福寺に官兵衛の肖像画を奉納したと言われています。

 

播磨国から異母兄達と共に戦国の世に出た黒田利則は数々の功績を残して、慶長17年(1612年)静かに息を引き取ります。