黒田利高について

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黒田利高と宮本武蔵の奇縁

黒田利高は黒田官兵衛の実の弟で、1544年(天文23年)に黒田職隆の次男として誕生しました。
幼名は小一郎と名乗りました。1577年(天正五年)、織田信長による播磨攻めの際、当時は織田信長の家臣であった羽柴秀吉に使えるようになりました。
その際、名を黒田兵庫助と名乗るようになります。
兵庫助は剣術に熱心であったことから、羽柴秀吉の親衛隊とも言える馬回り役に抜擢されます。
その後、播磨各地を転戦し武功を重ね、秀吉が町坪城を攻め落とした折りには、これまでの褒美として町坪城が与えられ、兵庫助は城主となります。1582年(天正10年)、本能寺の変が起きると兵庫助の秀吉の中国大返しに加わり、山崎の戦いにも参加します。
やがて秀吉が天下の覇権を決定づけた九州征伐にも加わり、このとき、キリシタンの洗礼を受けたとも言われています。
また兵庫助は九州征伐では大活躍し、黒田官兵衛が豊前6群を与えられ、中津城主となると、兵庫助も1万石を与えられて豊前高森城の城主となります。
その後、秀吉が挑戦に出兵すると、兵庫助も兄の官兵衛に従って朝鮮半島にわたります。
各地の戦闘で功績をあげましたが、朝鮮半島で風土病に感染、休戦時に日本に帰国し、大阪で病をいやしていましたが、長年の戦いに疲れた体は回復することなく。
1596年に42才で死去します。兵庫助は温厚篤実な人物をして知られ、また礼節に厳しい人物として知られていました。
兄の官兵衛が隠居した後、家督を継いだのは甥の黒田長政でした。長政は幼いころから後見を務めていた兵庫助を実の父親のように慕っていましたが、長政が家督を継ぎ、黒田家の当主になったときには、長政を当主として敬い、どんな場合でも長政の姿を見れば平服して武士としての礼儀を示し、家臣たちの手本になったと言われています。
また、兵庫助の逸話の中で有名なのは、非常に剣術に関心を抱いていたということです。
九州に所領を得てからは剣豪として有名だった宮本武蔵の父である、新免無二斎を呼び寄せ、家臣たちの剣術指南に当たらせたといいます。
その縁があり、新免無二斎の息子である宮本武蔵も黒田家の与力となり、関ケ原の戦いのときは中津城で挙兵した黒田官兵衛の先手として戦いに参加したと言われています。
黒田兵庫助は黒田家の次男であり、また42才という当時としても若くして命を落としたことからそれほど世間に名前を知られることはありませんが、黒田家を代表する黒田二十四騎、また黒田八虎の筆頭ともされていたことから、兵庫助の実力と人望を読み解くことができるでしょう。